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詩集 vs Tシャツ
皆さんは出版社から詩集を出すのにどれくらいお金がかかるか知ってますか?


おそらく、詩を書いている人ならよく知っているこの問題。答えは100万円。これ、安いのか高いのか?もちろん高い。今どき100万円も出せば、マンガ喫茶に3ヶ月泊り込んで、全てのマンガを制覇することだってできる。それなのにたった1冊の本のために…。


でも、ものは考えようで、自分の本を出版社から出版でき、流通させられると考えれば安いものと思う人だっている。しかーし、本当の問題は次。


自主出版された本が何部売れて、何人の人がその詩集を読むでしょうか?


これには破滅的な答えが予測できる。まず、自主出版の詩集は売れない。通常、自主出版の詩集で5000部刷られることはまずない。


僕の知っている少なくない悲惨な例。イベントなどで知り合いに買ってもらっていいとこ5部。幸運にも少ない流通で書店に1000部バラまかれたとして、1冊も売れないということがザラにある。詩人の手元にある本のほとんどは知人にバラまかれる。それでも全部はまけない。


マジック!では、あとの本はどこに消えたのか?これは詩集出版の永遠の謎である。僕の家にも無理やり寄稿させられた出版物がダンボールに詰められてどこかで眠っている。おそらく、そんなふうに、悲しい本たちがどこかで大量に眠っているのだろう。いつの日か燃やされる日まで。幸運にも再発見されて、ベストセラーになるのを夢を見たままね…。


だがもっと悲劇的なのは、万が一、誰かの手に渡ったとして、その本がきちんと読まれる確率は極めて少ない。


「読んだ?」
「…あん?ああ!あれ、面白かったよ」


なんて会話が交わされてはいるが、僕の算段では10%。5000部のうち手に渡った100部。そのうちの10%。10冊…。


「現代詩はどうしてこんなに廃れてしまったのか?」


待った待った!まだそう言うのは早い。これは詩人を一年以上名乗った人のかかる鬱病です。


「サイト・スペシフィック」という言葉を知っていますか?
現代アートを好きな人なら知ってるかもしれない。「特定の場所に帰属する」という意味のこの言葉。「ホワイトボックス」(白く塗られた美術館)という、世界共通のフォーマットから作品を出して、その場、固有の文脈、スタイルの中に展示を行おうというアプローチのこと。


近代の美術は作品を周囲の環境とはある程度切り離してどこに置いても交換可能な状態にしたことで発展してきた。つまり作品は、価値交換をおこなうことが出来る、貨幣と同じ価値体系に落とし込まれていた。それが近代だった。


しかし、その構造にも限界がみえた。どう限界だったのかは長いので各自の宿題として。破綻にいち早く気が付いたアートは美術館の外へ、作品を開放した。美術館に作品を収めることが「閉じ、溜め込み、保存する」行為なら、それは「開き、交換し、使用する」行為と言える。


さて、それと同じことが現代詩で言えると思う。詩にも「ホワイトボックス」がある。それは白い紙だ。詩は、誰の目にも触れられないまま閉じ、忘れられてゆく。本の終わりを一段飛びに言うつもりはない。しかし、本もまた、ある時代には新しいメディアだった。それだけのこと。


ああ、長い前置きでしたね。でー、自主出版という行為に置き換わる新しい時代の表現方法として、僕はTシャツというものを提案しようというわけです。Tシャツに詩を書いたらどうかと。


「は?」という前に、その特徴を言います。それは閉じていません。閉じることのないページです。それは不特定多数の目に触れます。詩集と違ってもらって嬉しいです。言葉のTシャツなんてちょっとオシャレじゃないですか。(デザインによりますが…)そしてなによりも安い!10万円もだせば、100枚は刷れる。


100万円だしてたった10人に読まれるかどうか。Tシャツなら少なくとも、着てくれた本人と、街でその人を見かけた人がその詩を読む可能性が出てくる。その数は未知数。


一番豊かなのは、そこからコミュニケーションが生まれる可能性だ。この世の中に、読んだ詩集の素敵さについていきなり話し出すことほど際どい行動はないが、言葉のTシャツなら、きっと打ち合わせの合間にでも、話題になる可能性がある。


つまり、言葉のTシャツはその人自身を閉じることのない本にしてしまうのです。言葉にさんさんと太陽の光がさし、たくさんの目にそれは開放される。


メディアが終わるのは作品の良し悪しではない。それだけは言える。


その時代にそぐったメディアの台頭によって廃れてゆくだけなのだ。詩は終わらない。本というメディアが下り道に差し掛かった。詩は繊細さゆえにその影響をいち早く受けただけ。そう考えられないか。


必ずしもTシャツが最善だとは思わない。しかし、詩とTシャツはすこぶる相性が良い。文字をデザインとして見せることが出来るからだ(印刷技術は文字からデザイン性の大きな部分を奪った)。そして、言葉はある種の身体性を獲得する。代わりにTシャツは、意中である抽象性を獲得する。


そして、一番重要なのは、Tシャツと詩が出会ったとき、そこには新しいクオリアが生まれるということ。本に書かれる詩とは違った新しい詩の表現。そして、Tシャツは、これまでのTシャツにない新しい存在感を放つ。


その時、ただ、Tシャツに詩を書けばいいのではない。その土地の滋養を吸って樹木が育ち、そこだけにしかない花に進化してゆくように、そこには新たな表現、そして、哲学の可能性が秘められている。


どうですか、詩集を出すより、Tシャツを作る方が魅力的じゃありませんか?
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by t-shouts | 2006-08-11 00:24 | 詩人類-里宗巧麻
言の葉を着こなせるか?
あたらしいイベントに関わることになった。こんなクソ忙しい時によりによって、自分をクソ追い詰めるようなことを…、と思うのだが、クソ仕方ない。それが僕のクソやりたいことだったからだ。クソっ!


仕事面では今の会社に入って以来、僕の役割の中でもっとも責任の重たい企画が動き出している。そして、初の出産。これは人生の一大事だ。僕が産むわけじゃないので妊婦体操はしなくていいんだけれど、なにかと大変だ。いや、きっとものすごく大変なんだろう。


でも、息子よ、パパを許せ。パパは正直に生きると決めたのだ。欲しいものは欲しいとお前と一緒にじたばたしながらグズるのだ。わっはっは。


でね、その企画というのが「詩人類T-shouts!」というのです。


言葉を生業とする人々が作るファッションブランド。なんだかわからないでしょ?簡単に言うと…簡単には言えません。言葉を使う人々がイベントを通じ、ただ、言葉を提供するのではなく、ファッションを通じて、新たな言葉との関係性、言葉の文化を発信しようというもの。


これね、実は僕がずっとしたかったこと。僕は東京に来る前は大学やファッション関係の専門学校で文化論の講師をしていた。テーマは「身体―言語」。いつも身体と言葉の関わりを軸に作品を考えていた。5年前に一度、言葉を使ったTシャツのブランドを立ち上げようとしたが、色々な理由で頓挫してしまった。


出会いというものは面白いね。


どこでどうつながるかわからないものです。まさに、鴨ネギなき企画を古くから付き合いのある桑原滝弥という詩人が持ちかけてきてくれた。彼は僕が「RADIO DAYS」を結成し、地方に巡業し始めた頃に知り合った。スタイルは全く違うものの、活動的な彼をみていると、なんだか、嬉しくなった。一緒に戦っている心強い仲間のような気がしたからだ。


「言の葉を着こなせ。」


これは桑原氏が考えた「詩人類T-shouts!」のとっても素敵なキャッチ。僕はこれをきいてすごく驚き嬉しくなりました。僕が5年前にしようとした言葉のTシャツのキャッチが「Dress ths word」だったからです。「言の葉を着こなせ。」のまったく直訳です。これには運命みたいなものを感じました。


ファッションというのは言葉を着ることだと思います。それは衣服だけではなく、文化とは言葉を纏うことなのです。本来、衣服は暖をとるためなどの利便性でいうと、それ以上の価値がそこに生まれるはずはないのです。しかし、人はそこに、それ以上の意味を持たせる。


日本語、英語、中国語、言語に色々とあるように、ファッションにも色々とある。言葉は方言や年齢層、文化層によって話す言葉が違う。ファッションにも流行があり、職業や年齢で違いがある。


服を見るとその人がどのような人かだいたい分かる。


誰にでも服で人を判断した経験があるはずだ。でも、不思議なことに、誰も、その服を着ろと言われて着ているわけではないのに、服に無頓着を装っているはずなのに、気が付くと、オタク系の人はオタク系のファッションで身を固めているし、赤坂OLは赤坂OLなスタイルになってゆく。


でも、言葉を装うことに意識的になれる人がどれだけいるだろうか?


本当に多くの人が、服の身だしなみについては考えるのに、言葉の身だしなみについては無頓着なんじゃないでしょうか?


言葉に着られているということが案外あると思う。でも、言葉をオシャレに着こなすなんてことも考えてもいいんじゃないかしら。こんなに情報が溢れている社会だからこそ。


情報化社会では、一人の人はひとつの情報に過ぎないと言われる。パソコンを解体すると出てくる電子基盤。あれをひとつの街と仮定してみよう。すると一人の人はそこを行き来する電気信号なのだ。つまり我々自身が、ひとつの信号なのだ。


Tシャツは極めて現代的で特殊な衣服だと思う。衣服の中にメッセージとして言葉を使い始めたのはいつからだろうか。おそらく、その歴史はかなり浅い。その歴史はまさしく、Tシャツとともに発展してきた。プリントの技術が向上し、それを制御するパソコンも進歩する。まさに情報技術の進化とともに、Tシャツが進化したのではないかというのが僕の仮説。


Tシャツを着ることで、我々は情報になりきることができる。まさにメッセージそのものになれるのだ。それは衣服の究極の形。ファッションは言葉。そして、身体が直接言葉を着る時代になった。本はもう古い。PCももう古い。これからは自分自身がアトムという情報になりきる時代だ。


「脱ニート宣言。わたしに素敵な仕事をください!」みたいにね。求人を主張してみたり。


これからは自分のメッセージをTシャツに込めることにもきっと抵抗がなくなってくるだろう。繊維に編みこむことができる特殊な液晶モニターに自分のお気に入りの写真やメッセージを表示させる時代もいずれやってくるに違いない。


Tシャツはこれからの時代の高度なコミュニケーションツールなのね
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by t-shouts | 2006-08-07 02:46 | 詩人類-里宗巧麻
ここだけのはなし
ひとつ不思議なことがある。どうして、日本人は日本語のTシャツを着ないんだろうってこと。


とにかく日本語ってデザインとして、美しい。漢字、カタカナ、ひらがな、alphabet。縦書き、横書き。世界一バリエーションに富んでいる。なのに。


あれかな、ほら、日本人って照れ屋さんでしょ。「愛してるぜ!おっー!」みたいなTシャツを着るのは抵抗があるのかもしれない。


でもね、この前「crazy boy」ってTシャツをおばさんが着てて。それってきっと息子か誰かのTシャツで、そこに何が書かれているかなんて気にしていないんだろうね。


でも、「狂人」とか書いてたら着ないよね、普通。わかんないけど…。


でぶっちょでどうしようもない男の子が英語で「みんなが私の魅力にクラクラ」なんてTシャツを着ていてね、それはそれで素敵なんだけれど。


唐突だけど、Tシャツってもっと自己主張してもいいんじゃないかしら。単にデザインがかっこよいとか当たりさわりないとか、そんなんじゃなくて、自己主張。


Tシャツはとても不思議な服だと思う。そう、ちょうど、渋谷や新宿にあるビルディングに似ている。


単なる広告というのではなく、広告で全体を覆うことで、存在を透明にしている。つまりTシャツって主張するものじゃなく、自分を隠すもの。バリア。それが正しいあり方。


どうして、日本語のTシャツがあんまりないのかって。それは怖いんだね。じゃあ、だからこそ、今、敢えて日本語のTシャツがカッコイイと思う。日本語が旬。


もう、なんでもありでやりつくされた感のあるTシャツの中にあって、こんなに新しく、インパクトのあるTシャツもないんじゃないかな。


着ている人の存在を消すといえばかき消すこともできるし、自己主張したいと思えば、強烈に主張もできる。


着る人が本になれちゃうなんて素敵じゃない?本屋の棚でそっとTシャツがダンボールの箱で売ってたりしたら素敵だなって。本の1ページを着て歩いて、まるでジグソーパズルの1ピースみたいにさ。すごくポエジー。で、しゃれてる。


これから、きっと流行ると思うよ。でも、まだ早いかもしれない。勇気のある人は人気者になれると思う。ねえ、誰か勇気のある人いない?


申し遅れました。わたくし、RADIO DAYSの里宗巧麻と申します。
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by t-shouts | 2006-07-29 03:14 | 詩人類-里宗巧麻