2006年 08月 11日 ( 1 )
詩集 vs Tシャツ
皆さんは出版社から詩集を出すのにどれくらいお金がかかるか知ってますか?


おそらく、詩を書いている人ならよく知っているこの問題。答えは100万円。これ、安いのか高いのか?もちろん高い。今どき100万円も出せば、マンガ喫茶に3ヶ月泊り込んで、全てのマンガを制覇することだってできる。それなのにたった1冊の本のために…。


でも、ものは考えようで、自分の本を出版社から出版でき、流通させられると考えれば安いものと思う人だっている。しかーし、本当の問題は次。


自主出版された本が何部売れて、何人の人がその詩集を読むでしょうか?


これには破滅的な答えが予測できる。まず、自主出版の詩集は売れない。通常、自主出版の詩集で5000部刷られることはまずない。


僕の知っている少なくない悲惨な例。イベントなどで知り合いに買ってもらっていいとこ5部。幸運にも少ない流通で書店に1000部バラまかれたとして、1冊も売れないということがザラにある。詩人の手元にある本のほとんどは知人にバラまかれる。それでも全部はまけない。


マジック!では、あとの本はどこに消えたのか?これは詩集出版の永遠の謎である。僕の家にも無理やり寄稿させられた出版物がダンボールに詰められてどこかで眠っている。おそらく、そんなふうに、悲しい本たちがどこかで大量に眠っているのだろう。いつの日か燃やされる日まで。幸運にも再発見されて、ベストセラーになるのを夢を見たままね…。


だがもっと悲劇的なのは、万が一、誰かの手に渡ったとして、その本がきちんと読まれる確率は極めて少ない。


「読んだ?」
「…あん?ああ!あれ、面白かったよ」


なんて会話が交わされてはいるが、僕の算段では10%。5000部のうち手に渡った100部。そのうちの10%。10冊…。


「現代詩はどうしてこんなに廃れてしまったのか?」


待った待った!まだそう言うのは早い。これは詩人を一年以上名乗った人のかかる鬱病です。


「サイト・スペシフィック」という言葉を知っていますか?
現代アートを好きな人なら知ってるかもしれない。「特定の場所に帰属する」という意味のこの言葉。「ホワイトボックス」(白く塗られた美術館)という、世界共通のフォーマットから作品を出して、その場、固有の文脈、スタイルの中に展示を行おうというアプローチのこと。


近代の美術は作品を周囲の環境とはある程度切り離してどこに置いても交換可能な状態にしたことで発展してきた。つまり作品は、価値交換をおこなうことが出来る、貨幣と同じ価値体系に落とし込まれていた。それが近代だった。


しかし、その構造にも限界がみえた。どう限界だったのかは長いので各自の宿題として。破綻にいち早く気が付いたアートは美術館の外へ、作品を開放した。美術館に作品を収めることが「閉じ、溜め込み、保存する」行為なら、それは「開き、交換し、使用する」行為と言える。


さて、それと同じことが現代詩で言えると思う。詩にも「ホワイトボックス」がある。それは白い紙だ。詩は、誰の目にも触れられないまま閉じ、忘れられてゆく。本の終わりを一段飛びに言うつもりはない。しかし、本もまた、ある時代には新しいメディアだった。それだけのこと。


ああ、長い前置きでしたね。でー、自主出版という行為に置き換わる新しい時代の表現方法として、僕はTシャツというものを提案しようというわけです。Tシャツに詩を書いたらどうかと。


「は?」という前に、その特徴を言います。それは閉じていません。閉じることのないページです。それは不特定多数の目に触れます。詩集と違ってもらって嬉しいです。言葉のTシャツなんてちょっとオシャレじゃないですか。(デザインによりますが…)そしてなによりも安い!10万円もだせば、100枚は刷れる。


100万円だしてたった10人に読まれるかどうか。Tシャツなら少なくとも、着てくれた本人と、街でその人を見かけた人がその詩を読む可能性が出てくる。その数は未知数。


一番豊かなのは、そこからコミュニケーションが生まれる可能性だ。この世の中に、読んだ詩集の素敵さについていきなり話し出すことほど際どい行動はないが、言葉のTシャツなら、きっと打ち合わせの合間にでも、話題になる可能性がある。


つまり、言葉のTシャツはその人自身を閉じることのない本にしてしまうのです。言葉にさんさんと太陽の光がさし、たくさんの目にそれは開放される。


メディアが終わるのは作品の良し悪しではない。それだけは言える。


その時代にそぐったメディアの台頭によって廃れてゆくだけなのだ。詩は終わらない。本というメディアが下り道に差し掛かった。詩は繊細さゆえにその影響をいち早く受けただけ。そう考えられないか。


必ずしもTシャツが最善だとは思わない。しかし、詩とTシャツはすこぶる相性が良い。文字をデザインとして見せることが出来るからだ(印刷技術は文字からデザイン性の大きな部分を奪った)。そして、言葉はある種の身体性を獲得する。代わりにTシャツは、意中である抽象性を獲得する。


そして、一番重要なのは、Tシャツと詩が出会ったとき、そこには新しいクオリアが生まれるということ。本に書かれる詩とは違った新しい詩の表現。そして、Tシャツは、これまでのTシャツにない新しい存在感を放つ。


その時、ただ、Tシャツに詩を書けばいいのではない。その土地の滋養を吸って樹木が育ち、そこだけにしかない花に進化してゆくように、そこには新たな表現、そして、哲学の可能性が秘められている。


どうですか、詩集を出すより、Tシャツを作る方が魅力的じゃありませんか?
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by t-shouts | 2006-08-11 00:24 | 詩人類-里宗巧麻